総合的な咀嚼としてのステーキ味

 僕はポテトチップスが好きです。じゃがいもを薄切りにし、油で揚げ、そこに味をつけるだけというシンプルさがいい。ポテトチップスを1枚手に取れば、それがどのようにして作られたのかがわかる。グミやチョコレートと違って、知識や想像力というものをあまり必要としない。

 

 しかし中には理解に苦しむポテトチップスも多い。例えばステーキ味や鶏モツ煮味、焼餃子味のポテトチップスがそれである。これらの商品に、僕はいろいろと疑問を抱いている。

 

 第一に、食べてみても正直それがステーキ味なのかよくわからないし、そもそも僕は「ステーキ味」なるものの存在にどうも納得がいかない。ステーキの味とは、お肉の味、塩コショウの味、ステーキソースの味を舌で同時に知覚することで出現する、いわば総合的な咀嚼としての味であって、「ステーキ味」というものが1個の味として独立して存在するわけではないと僕は思うのである。だからポテトチップス・ステーキ味というのが原理的に間違っているという気がしてならない。もしメーカーが僕の言うステーキの味をポテトチップスで再現しようとしているなら、それは「ポテトチップス・総合的な咀嚼としてのステーキ味」と名付けるべきではないか。いくぶんまずそうではあるけれども。

 

 「ステーキ味」か「総合的な咀嚼としてのステーキ味」かはさておき、ステーキの味をメーカーはどうやって再現しているのか、ということも僕にはよくわからない。例えばビーフステーキの塩味やら酸味やら甘みやらを機械で測定して数値化し、それを科学調味料で再現したパウダーを揚げたてのじゃがいもにまぶしているのだろうか。あるいは冷凍したビーフステーキをガリガリ削って粉にして、それをそのままじゃがいもに振りかけているのか。どちらにせよ、僕はそういうのがあまり健全な調理だという気はしない。

 

 だいたい、ポテトチップスはじゃがいもが主役なのだからじゃがいもを楽しむべきである。言い換えれば、ポテトチップスの味は原則的にじゃがいもにつけることのできる味にしたほうがよい。ポテトチップスにはうすしお味や、しょうゆ味や、バター味など色々あるが、どれもじゃがいもにかけたって成り立つ味である。しかしステーキ味というのは明らかにおかしいだろう。じゃがいもにステーキをかけたって、それはじゃがいもとステーキである。ステーキ味のじゃがいもにはならないし、そうする必要性も感じられない。じゃがいもはじゃがいも、ステーキはステーキで食べるべきである。

 

 まあそういうわけで、この手の味のポテトチップスを自分で買って食べようとは思わない。しかしお菓子会社に入ってこういう味を考えるのは、なかなか楽しそうな気もする。もしそうなったら、僕は「ポテトチップス・総合的な咀嚼としてのかつ丼味」とか「総合的な咀嚼としてのお寿司味」なんかを提案したいと思う。

 

シュレディンガーの猫

 物理学の中でも量子力学と呼ばれる分野に「シュレディンガーの猫」という思考実験がある。シュレディンガーさんが考えたからシュレディンガーの猫と言う。僕にとっての物理学は等加速度運動を学んで以来ピタリと静止しているから、僕に量子力学の解説なんて土台無理な話なんだけど、いちおう受け売り的に説明すると次のような実験らしい。

 まず中の見えない密封できる箱を用意する。その中に、

 

 ・1時間あたりに50%の確率で崩壊する放射性元素

 ・放射線を観測する機械(これを仮にタカシ君と呼ぶ)

 ・タカシ君が放射線を観測すると毒ガスを出す機械

 ・生きた猫

 

を入れる。それから1時間が経つと、箱の中の状態として次の2つが考えられる。

 

 (A)50%の確率で原子が崩壊し、放射線を出す

   =毒ガスが出て、猫は死んでいる

 (B)50%の確率で原子は崩壊せず、放射線を出さない

   =毒ガスが出ず、猫は生きている、

 

 普通に考えれば、そのどちらであるかは箱を開ける前から決まっているわけだ。生きた猫と死んだ猫、その一方が箱の中にいる。

 しかし量子力学者はそのように考えない。彼らは開ける前(=観測する前)の箱の中の状態を次のように考える。

 

 (C)原子は、放射線を「放出する状態」と「放出しない状態」が重なり合っている

   =「生きた猫」と「死んだ猫」という状態が重なり合っている。

   そして観測したときに、一つの状態に収束する

 

 要するにこの実験は「ミクロの世界の状態は、いくつかの状態の重なりによって表され、観測されたときには1つの状態に定まっている」(コペンハーゲン解釈)という量子力学の考え方を、猫を使って説明しているわけだ。

 しかしもともとは、「あんたたちの考え方(箱の中の原子の状態は、放出する状態と放出しない状態が重なり合っている)に従うと、猫が生きてる状態と死んでる状態が重なることになるんだけど、これはおかしいじゃないか」ってことで量子力学を批判するのがシュレディンガーの目的であった。そりゃそうだよね、猫が生きてる状態と死んでる状態が重なり合っているなんて納得いかないもの。箱の中の猫は、生きているか死んでいるかの二者択一であることは、見なくたって当たり前のことだ。とはいえ状態の重なりを仮定したところで、それが間違っていると証明することもできないんだとか。

 とにかくまあ僕にはよくわからないのだけど、これは色々とややこしい問題らしい。量子力学者というのはヘンなことを考える人たちである。僕からすれば箱の中の状態というのはどうだってよくて、50%の確率で猫が死んじゃうことのほうが大問題である。いくら思考実験と言ったって、頭の中で無実の猫を殺すのは快いことではない。そこのところ、学者さんたちにはしっかりしてほしいものである。

 

 ところで僕が住んでいる寮には、寮生が共同で利用する洗濯機が各階1つずつ置いてある。古いタテ型洗濯機で、すすぎの回数も脱水の時間も調整できない。おまけに150円入れないと作動しないという、かなり不親切な設計である。確認窓もついていないから蓋を開くまで中の様子を知ることはできないわけだが、いざ僕が洗濯しようと蓋を開けたらだいたい2回に1回は前の人の洗濯物が残っていて、なんだこのけしからんやつは、と思うことになる。それでこのけしからんやつを、僕は「シュレディンガーの洗濯物」と呼んでいる。

かわいいものを買うことについて

 夏の終わりごろ、僕は自分に何か買ってあげようと思った。

 

 そう言うと、自分の誕生日でもあったのか、3キロのダイエットに成功した自分へのご褒美か、あるいは理不尽な理由で先輩に怒られたストレスを発散しようとしたのか、そういう何か特別な理由がありそうに聞こえるでしょう?僕もそう聞こえる。でもそうではなくて、単純にお金に余裕があったからである。今年の夏はやけにお金のかからない夏であった。コロナのせいで友達と会ったりお出かけしたりということが少なく、家で本を読んだり近所を散歩したりすることが多かった。こういう御手頃な過ごし方はときどき退屈にも感じるけれど、基本的にはのんびりしていていいですよ。無駄に疲れるということがない。人恋しくなったらたまに友達とご飯を食べに行く。人恋しいと言っても寮にも実家にも誰かしら人はいるのだけどね(僕は東京の寮の狭い一室に暮らし、夏の一時期を福岡の実家で過ごした)。人付き合いと休息と労働のバランスを多少調節すれば、お金を使わなくても意外といい夏を送れます(労働を減らすのがコツ!)。

 

 まあそういうわけで、僕はお金に余裕があったから自分に何か買ってあげようと思った。アイデアは3つ。

 

(案1)ニンテンドースイッチ本体およびそのゲームソフト

 僕は昔からゲームが好きなんだけれど、この頃はPS4モンスターハンターをほとんどやり尽くして暇になっていた。やり尽くしたというよりはある種の限界点に達していたのが本当のところだけど、要するにモンハンをプレイすることで得られる効用が逓減してきたから、僕には新しいゲームが必要だった。「どうぶつの森」や「ポケモン」みたいなゲームが。しかし一方で、授業が始まると結局忙しくなってゲーム機を起動しなくなるというのもありそうな結末である。これらを天秤にかけた結果、やはり後者の方が重そうだということでこの案は棄却した。僕が週5コマくらいのスカスカの時間割を組めばゲーム三昧できるんだろうけど、あまり望ましいことではないものな。

 

(案2)中華鍋

 これは全然ふざけているわけではなくて、至ってまともな案である。というのもこの時期の僕は最強のチャーハンを作り上げることに取り憑かれていて(まともではない)、そういう人にとって中華鍋を買おうというのはごく自然な考えである。強い火力と格闘しながら中華鍋を振る男ほど絵になる男はなかなかいないからね、そういう絵になる男を目指そうとする時期は誰にだってある。それが僕の場合、たまたま2020年の9月だったのだ。しかし結局は寮母さんに怒られそうだと思ったのでこの案も諦めた。(現在寮母さんは退職されて、代わりに寮父さんがいる。)

 

(案3)漫画『かぐや様は告らせたい』全巻

 AmazonPrimeでアニメ版を視聴して僕は『かぐや様』を気に入った。続きが気になって漫画を調べると、全19冊で合計11,286円とそれほど高くもない(20巻が発売されたのは11月)。ほかに欲しいものも思いつかなかったし、漫画を全巻買うということになんだかわくわくしたから、今回はこの案を採用した。とはいえ、部屋のどこに置くのかはよく考えないといけない。

 

 ということで、夏の終わりに僕は『かぐや様』を全巻買うことにした。

 

 別に通販で買っても問題はないのだけれど、僕は本屋というものが好きだし、配達を待つのも面倒だったから、吉祥寺のジュンク堂で買うことにした。ジュンク堂吉祥寺店はコピス吉祥寺というショッピングセンターの6階と7階に入っていて、漫画コーナーはエスカレーターで6階に上がって左奥に進んだところにある。フロアマップを確認すればよくわかるのだが、漫画は長崎の出島のような隔離された区画に押し込まれていて、やや不憫であるといつも思う。

 

 目的の品は、ヤングジャンプの棚の1番目立つところにある。しかしいざ現物を見て思い至ったのだが、『かぐや様』をレジに持っていくというのはわりに恥ずかしい行為である。もちろんそれは、『かぐや様』を買うのが電車内で通話するみたいに反社会的行為だと言いたいわけではなくて(『かぐや様』を買うことが周りの人たちの不快を大きく増幅させるとは考えがたい)、あくまで個人的文脈においての話である。いったいどういう事情で恥ずかしいのか、あまり意味もないけど述べようと思う。

 

恥ずかしい理由(1):表紙がかわいい

 僕が普段買う本と言えばたいていは小説か、新書か、あるいは参考書の類で、そういった本はシックで落ち着いた、安心感のあるたたずまいをしている。私を読め、君はまた賢くなる、そういうある種の説得力が漂っているのだ。こういう本は安心して堂々と買うことが出来る。

 

 漫画に限った話をすれば、僕が昔買っていたのは『こち亀』や『遊戯王R』(付録のカード「冥府の使者ゴーズ」は強力で、これが欲しかった)などで、表紙を飾るのは基本的に「野郎」であった。いかにも男臭い表紙である。そこには「説得力」の欠片も無い。しかしこういう本は保守的な男子にも優しいデザインだと言える。

 

 対して『かぐや様』の表紙を見ると、そこにいるのはキュート・ガールなのである。見慣れた毛むくじゃらの中年でもなければ、やたらトゲトゲしい髪形をした決闘者(デュエリスト)でもない。高校の制服を着て、高校生らしからぬ髪色をした、キュートなガールがそこにいるのだ。そういうキュートなものを買うのは、保守的な男性にとっては後ろめたいものであったりする。

 

 近年は、旧来的ジェンダー規範に対する懐疑が広まり、伝統的な男性像・女性像が相対化されつつあるが、僕もそういった流れについては原則的に賛同する。僕は決して他人の趣味や考え方について、男なら、女なら、とあれこれ文句を言う人間ではないし、言いたいことがあるわけでもない。しかし自分のことに限っては、男ならこうあるべきだ、と思っている。要するに、パンケーキよりもステーキを愛し、チャラチャラすることを嫌い、涙は見せず、かわいいものに執着しない(猫はいい)、そういう男であるべきだと思っている(たいして珍しい考え方でもないな)。もちろんこれは一つの指針であって、ここから外れることがあるのは当然で、たまにはパンケーキも食べるし、まれに涙も見せる。しかし基本的に、僕はそういう男である。

 

 これまで僕はかわいいもの、特に2次元的にかわいいものとは意識的に一定の距離を保って生きてきた。女の子のイラストと僕というのは基本的に親和性の低い組み合わせで(いでと言えば二次元美少女!なんて思われていたらけっこうショックだ)、例えるならそれは日本のお葬式とダブル・チーズ・バーガーくらいのミスマッチなのである。

 

 そういうわけで、キュート・ガールが表紙をかざる本というのは買いづらい。

 

恥ずかしい理由(2):「知的さ」が足りない

 僕は変にプライドの高い人間で、知的であること、知的な自分を演じること、そうでなければ時々はただならぬ天才感を放つこと、これを大切にしている。僕なりの「知的」というのは、大人っぽくて思考的で、かつクールであること、大体そんな感じである(大人っぽいとはなんなのか? 思考的とはなんなのか? クールとはなんなのか? なんだっていいじゃないか)。こういう基準のもとに、僕は(人前では)できるだけ知的なものを摂取し、知的でないものを摂取しないようにして生きているのだ(ただしこれは都合よく解釈されることもある)。

 

 それでですねー、あまりこういうことは言わない方がいいと思うんですが、暴力的で偏見的な言い方をすれば、ラブコメ漫画が知的な本だとは思えないんですよ。いえもちろん、ラブコメ漫画に知的さがないと言っているわけではなくて。たくさんあるのかもしれないし、ちょっとあるのかもしれないし、ないのかもしれない。作品によって様々だろうし、それは小説だろうが科学雑誌だろうが同じことである。

 

 しかしラブコメ漫画というジャンルへの第一印象として、それは知的な本だとは思えないのである。ラブコメ漫画の性質を考えるとき、そこにあえて「知的」というラベルを大きく貼るようなことはあまりしないんじゃないだろうか。丹念に読み解いていけばラブコメ漫画が信じられないほど知的な本であるとしても、「笑いつつキュンキュンする本」という一般的認識は大きく変わらないはずである。世間一般の評価が「ラブコメ漫画?ああ、あれめっちゃ知的だよね。あれ読んでる人は絶対知的」となることはおそらくあり得ない。例えば豚肉がどれだけ良質なビタミンを含んでいても、とんかつが健康食品だとは思われないように。僕が言う「ラブコメ漫画が知的な本だとは思えない」とはそういうことである。

 

 それで、これは本当にただの個人的悪口なんだけど、ラブコメ漫画は知的でない(ゼロ)というより、(僕にとって)若干マイナス寄りだと思ってしまうのである。別にラブもコメディーも漫画も「知的さ」を損なう要素ではないのだけど、ラブとコメディーと漫画が合わさると、急激に軽薄さを感じてしまう。これはもう、どうしようもなくそう感じてしまう。実際にどの作品を読むとか読まないとかではなくて、総体としてのラブコメ漫画から薄っぺらい印象をぬぐい切れない。僕が『かぐや様』を好きとか、実は『五等分の花嫁』も観たとか、そういう話ではありません。ごめんさない。ラブコメ漫画を読んでいる人がどうとかいうことでもありません。ただ、同じ愛の物語でもスタンダールの『赤と黒』ではなくラブコメ漫画を読む自分というのがどこか許せない。そういう自意識過剰的な心配が恥ずかしさの正体その2である。

 

恥ずかしい理由(3):オタクっぽさ

 オタクは2種類存在する。オープンオタクと隠れオタクである。つまりオタクであることを公言する者と、密かにオタク趣味を追求するものである。別に僕はこれと言ったオタク趣味を持っていないのだけれど、気持ちとしては常に隠れオタクの味方である。漫画やアニメ、ラノベを嗜好することは、誰かに咎められることはなくとも謎の後ろめたさが付きまとう。だからこそ僕はそれらとの距離感に対して敏感に生きてきた。近づきすぎると脳から「おい、それ以上漫画に触れると危ないぜ!」という電気信号が発せられ、僕は有能な武将が敵の深追いを自重するがごとく漫画から離れるわけだ。とりわけキュート・ガールから。

 

 故に『かぐや』様を全巻購入するというのは、僕にとってかなり挑戦的な行為であると言っていい。僕は周りの客からとんでもないオタクだと思われるのではないか。レジの店員だってもしかしたらオタク趣味に否定的な人間で、「あんたみたいなパッとしない男子大学生が女の子の絵を見てニヤニヤしてるのって、正直ねえ?」なんて思うのかもしれない。ラブコメ漫画を19冊抱えて立っている男子大学生がオタクでないと認識される可能性は、基本的にかなり低い。

 

 僕はオタク趣味的に『かぐや様』を買うわけじゃなくて、あくまで漫画を読む平均的若者として買うだけなのだけど(もしかしてオタク趣味を否定するほど逆説的にオタク感が増すのではないか)、外から見ればそんなことをいちいち区別は出来ない。あるいはこれまで無数の客を見てきた熟練の店員なら直感的にわかるのだろうか。こいつはオタクじゃない、と。しかしあまり期待しない方がいいだろう。そんな店員はいない。

 

 まあとにかく、この拭いきれないオタク感が恥ずかしい理由その3である。

 

恥ずかしい理由4:九州男児
 これが最後にして最大の懸念材料なのだが、僕は九州男児という逃れようのない業を背負って生きている。逃れようのないと言うからには、それは逃れようのないもので、九州に育った男は皆、己の意思に関わらず九州男児として生きていかなければならない。そして九州男児には実は明確なルールが存在していて、広辞苑第9版にはそれが明確に記されている。

九州男児

九州地方に生まれ育った男子の称。荒々しいところがあるが、生一本で情熱的な人が多いとされる。ラブコメ漫画を読んではならない。

そう、九州男児はラブコメ漫画を読んではならないのだ。九州男児は皆、10歳の誕生日を迎えた日に両親からこの掟を知らされる。強く生きろ、誰かを守れる男になれ、ラブコメ漫画は読むな。九州男児は常に硬派であること求められるのだ。つまり僕が『かぐや様』を買うというのは、九州男児としての倫理に反する恥ずべき行為なのである。

 

 しかしこれは、もちろん嘘です。広辞苑第9版はまだ発売されていません。(恥ずかしい理由おわり)

 

 

 さて、かなりの時間を無駄にして『かぐや様』を買うのが恥ずかしい理由を書いたが、ジュンク堂吉祥寺店の漫画コーナー、ヤングジャンプの棚の前にいる僕にとっては刹那の思考である。いくら恥ずかしいと言ったって赤面するほどのことじゃないから、僕はこのまま買うつもりでいる。

 

 しかしながらまったくの無防備で行くのはいやだから、僕は一度コミックコーナーを離れ、新書コーナーで1冊、文芸コーナーでまた1冊を手に取る。『日本近代小説史』と『新潮日本古典集成 竹取物語』という、知的な2冊である。いくぶん焼け石に水的補強ではあるが、あると少しだけ心強い。若いチームには経験豊富なベテランが必要だ。

 

 ところで皆さんは、書店で21冊の本を一度に抱えたことがあるだろうか。これはなかなかスリリングな行為である。かごに入れてレジへもっていく前にどうしてもやってみたくなったから、僕は21冊の本を縦に積み重ねてみた。周りに人のいないところで。

 

日本近代小説史

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい10

かぐや様は告らせたい11

かぐや様は告らせたい12

かぐや様は告らせたい13

かぐや様は告らせたい14

かぐや様は告らせたい15

かぐや様は告らせたい16

かぐや様は告らせたい17

かぐや様は告らせたい18

かぐや様は告らせたい19

新潮日本古典集成 竹取物語

 

 どうだろうか、この圧倒的な厚みは。日本の学生支援もこれくらい分厚かったらいいのに、と思わず口に出してしまいそうな厚さである。

 

 積み重ねた順番にも少しだけ気を配っている。いわゆるサンドイッチである。サンドイッチとは、何となく恥ずかしいもの・後ろめたいものを購入する際、その商品を別の商品で上下に挟み込むことで、レジの人にその商品から注意を逸らすという手法のことである。要するに元気なおじさんがアダルトビデオを借りるときに、それを「ショーシャンクの空に」と「タイタニック」の間に挟むという、あれです。本当にやってるおじさんがいるのか知りませんが、こういうのは逆効果でしょうね。最近はセルフレジが増えているようで、そういう心配もないのかもしれませんが。まあ僕もせっかく本を重ねるならということで、今回はこの作法に則ってみたわけである。風流のために。

 

 倒れないよう注意しながらそっと持ち上げてみると、思いのほか安定していて、このままレジに持って行くこともできそうな感じである。高さは僕の腰から胸くらいまであって、ずっしりとした重みがある。これはなんだか、新生児を抱いているみたいな気分だ。というわけで、今日の教訓はこれ。21冊の本を積み重ねてもつと、新生児を抱くような気分になれる。

 

 さて、本はかごにいれて、素直にレジに行こう。そういうわけで、僕は『かぐや様』全巻とその他2冊を購入した。

 

《参考》

・『かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦 11』より第110話「石上優は語りたい」

・『こちら葛飾区亀有公園前派出所 184』より第1話「両津さんにおすすめします」

夏が終わる

 悲しき哉、本日9月24日は夏休みの最終日である。

 いや、夜の0時を回っているから正確には9月25日というべきだが、「眠るまでが今日」主義者の私に言わせれば、今は9月24日の午後24時10分である。

 東京都杉並区の天気は曇りときどき雨、最高気温は21度、風が強く、長袖のカットソーを着ていても少し肌寒い。過ごしやすい気候は大歓迎だが、夏が終わろうとしていることに一抹の寂しさを感じずにはいられない。

 振り返れば今年の夏は人に会うことも少なく、夏らしいこともせぬままに過ごしてきた。強いて言うなら、汗をかき、蚊に刺され、アイスが溶けたくらいである。しかしそういうのは夏らしさの弊害と言うべきものであって、決して恩恵ではない。大学生ともあらば、サークルの仲間と旅行に行ったり、浴衣を着て花火を見物したり、海辺でバーベキューをしたりしてこそ「夏らしい」というべきである。しかし今年の夏はそういう類のものを楽しむことは出来なかった。その責任は何処にあるか。

 コロナである。

 この忌々しき流行病は、我々から夏の楽しみの一切を奪い去っていった。外出自粛・ソーシャルディスタンスの大号令の下、自宅に縛り付けられたのは4月のこと。以来私は基本的に寮の自室と近所のスーパー・郵便局ばかりを行き来する生活を送ってきた。やがて、社会が「コロナとの共存」の方向へと舵を切り、外出自粛の風潮が少しずつ緩和されていったとはいえ、大人数で集まることは言わずもがな、友人と会うことにも多少のためらいを感じずにはいられなかった。前期の授業が終了し夏休みに入ってもそのままである。「過敏にならず、安全に注意して人と会えばよい」という人もいるかもしれない。それはそうである。そう言う人を批判するつもりは毛頭ない。しかし私という繊細な人間は、あらゆる可能性を考慮して、慎ましく生活せずにはおられないのである。もし私がコロナに感染すれば他の寮生に移しかねないし、お年寄りの寮母さんを危険にさらすことになる。そういった責任を総合的に加味した結果、部屋にこもるという最適解がはじき出されたのである。そして部屋にいてできることは限られてくるから、読書やゲーム、YouTube鑑賞にいきつくのは当然のことである。選択の余地などない。

 従って、無為徒食なる夏を過ごしたことについて、私に非はない。あくまで全ての責任はコロナにある。私のこの夏休みを見て、私の交友関係やコミュニケーション能力、企画能力を疑うのは誤った推論である。

 

 とはいえ、コロナを恨んだところで夏が終わることに変わりはない。過ぎ行く夏への寂しさをいちいち語るにはもう眠い時間だから、代わりにMr.Childrenの「夏が終わる~夏の日のオマージュ~」という知る人ぞ知る名曲の歌詞を張り付けておこうと思う。

では、夏よさらば。

 

【夏が終わる~夏の日のオマージュ~】

夏の終わりの少し冷えた空気が

人懐かしさを運んでくる

強い日差し 蝉の声 陽炎 花火 波の音 寝苦しい夜

 

ビーチハウスはもう取り壊され

ただの木材へと姿を変える

期待したことなど何ひとつ起きなかったな

まだあきらめてないけど

 

夏が終わる

ただそれだけのこと

なのに何かを失ったような気がした

普通の日々に引き戻されることが

たまらなく寂しく思えた

 

きれいごと並べて 理想を押し付けて

異見されると無愛想になってた

君にとって何よりも一番暑苦しかったものは

僕だったんじゃないかな

 

夏が終わる

それと似たようなもの

分かったようなこと言って誤魔化した

孤独な僕とまた向き合っていくことも

大事なステップと言い聞かせて

 

夏が終わる

大好きな夏が終わる

まるで命が萎んでいくような気がした

普通の日々に引き戻されることが

たまらなく寂しく思えた

孤独な僕とまた向き合っていくことが

泣きたいほど悲しく思えた

 

夏が終わる

 

夏が終わる

それと似たようなもの

分かったようなこと言って誤魔化した

孤独な僕とまた向き合っていくことも

大事なステップと言い聞かせて

 

夏が終わる

大好きな夏が終わる

まるで命が萎んでいくような気がした

普通の日々に引き戻されることが

たまらなく寂しく思えた

孤独な僕とまた向き合っていくことが

泣きたいほど悲しく思えた

 

夏が終わる