夏が終わる

 悲しき哉、本日9月24日は夏休みの最終日である。

 いや、夜の0時を回っているから正確には9月25日というべきだが、「眠るまでが今日」主義者の私に言わせれば、今は9月24日の午後24時10分である。

 東京都杉並区の天気は曇りときどき雨、最高気温は21度、風が強く、長袖のカットソーを着ていても少し肌寒い。過ごしやすい気候は大歓迎だが、夏が終わろうとしていることに一抹の寂しさを感じずにはいられない。

 振り返れば今年の夏は人に会うことも少なく、夏らしいこともせぬままに過ごしてきた。強いて言うなら、汗をかき、蚊に刺され、アイスが溶けたくらいである。しかしそういうのは夏らしさの弊害と言うべきものであって、決して恩恵ではない。大学生ともあらば、サークルの仲間と旅行に行ったり、浴衣を着て花火を見物したり、海辺でバーベキューをしたりしてこそ「夏らしい」というべきである。しかし今年の夏はそういう類のものを楽しむことは出来なかった。その責任は何処にあるか。

 コロナである。

 この忌々しき流行病は、我々から夏の楽しみの一切を奪い去っていった。外出自粛・ソーシャルディスタンスの大号令の下、自宅に縛り付けられたのは4月のこと。以来私は基本的に寮の自室と近所のスーパー・郵便局ばかりを行き来する生活を送ってきた。やがて、社会が「コロナとの共存」の方向へと舵を切り、外出自粛の風潮が少しずつ緩和されていったとはいえ、大人数で集まることは言わずもがな、友人と会うことにも多少のためらいを感じずにはいられなかった。前期の授業が終了し夏休みに入ってもそのままである。「過敏にならず、安全に注意して人と会えばよい」という人もいるかもしれない。それはそうである。そう言う人を批判するつもりは毛頭ない。しかし私という繊細な人間は、あらゆる可能性を考慮して、慎ましく生活せずにはおられないのである。もし私がコロナに感染すれば他の寮生に移しかねないし、お年寄りの寮母さんを危険にさらすことになる。そういった責任を総合的に加味した結果、部屋にこもるという最適解がはじき出されたのである。そして部屋にいてできることは限られてくるから、読書やゲーム、YouTube鑑賞にいきつくのは当然のことである。選択の余地などない。

 従って、無為徒食なる夏を過ごしたことについて、私に非はない。あくまで全ての責任はコロナにある。私のこの夏休みを見て、私の交友関係やコミュニケーション能力、企画能力を疑うのは誤った推論である。

 

 とはいえ、コロナを恨んだところで夏が終わることに変わりはない。過ぎ行く夏への寂しさをいちいち語るにはもう眠い時間だから、代わりにMr.Childrenの「夏が終わる~夏の日のオマージュ~」という知る人ぞ知る名曲の歌詞を張り付けておこうと思う。

では、夏よさらば。

 

【夏が終わる~夏の日のオマージュ~】

夏の終わりの少し冷えた空気が

人懐かしさを運んでくる

強い日差し 蝉の声 陽炎 花火 波の音 寝苦しい夜

 

ビーチハウスはもう取り壊され

ただの木材へと姿を変える

期待したことなど何ひとつ起きなかったな

まだあきらめてないけど

 

夏が終わる

ただそれだけのこと

なのに何かを失ったような気がした

普通の日々に引き戻されることが

たまらなく寂しく思えた

 

きれいごと並べて 理想を押し付けて

異見されると無愛想になってた

君にとって何よりも一番暑苦しかったものは

僕だったんじゃないかな

 

夏が終わる

それと似たようなもの

分かったようなこと言って誤魔化した

孤独な僕とまた向き合っていくことも

大事なステップと言い聞かせて

 

夏が終わる

大好きな夏が終わる

まるで命が萎んでいくような気がした

普通の日々に引き戻されることが

たまらなく寂しく思えた

孤独な僕とまた向き合っていくことが

泣きたいほど悲しく思えた

 

夏が終わる

 

夏が終わる

それと似たようなもの

分かったようなこと言って誤魔化した

孤独な僕とまた向き合っていくことも

大事なステップと言い聞かせて

 

夏が終わる

大好きな夏が終わる

まるで命が萎んでいくような気がした

普通の日々に引き戻されることが

たまらなく寂しく思えた

孤独な僕とまた向き合っていくことが

泣きたいほど悲しく思えた

 

夏が終わる