かわいいものを買うことについて

 夏の終わりごろ、僕は自分に何か買ってあげようと思った。

 

 そう言うと、自分の誕生日でもあったのか、3キロのダイエットに成功した自分へのご褒美か、あるいは理不尽な理由で先輩に怒られたストレスを発散しようとしたのか、そういう何か特別な理由がありそうに聞こえるでしょう?僕もそう聞こえる。でもそうではなくて、単純にお金に余裕があったからである。今年の夏はやけにお金のかからない夏であった。コロナのせいで友達と会ったりお出かけしたりということが少なく、家で本を読んだり近所を散歩したりすることが多かった。こういう御手頃な過ごし方はときどき退屈にも感じるけれど、基本的にはのんびりしていていいですよ。無駄に疲れるということがない。人恋しくなったらたまに友達とご飯を食べに行く。人恋しいと言っても寮にも実家にも誰かしら人はいるのだけどね(僕は東京の寮の狭い一室に暮らし、夏の一時期を福岡の実家で過ごした)。人付き合いと休息と労働のバランスを多少調節すれば、お金を使わなくても意外といい夏を送れます(労働を減らすのがコツ!)。

 

 まあそういうわけで、僕はお金に余裕があったから自分に何か買ってあげようと思った。アイデアは3つ。

 

(案1)ニンテンドースイッチ本体およびそのゲームソフト

 僕は昔からゲームが好きなんだけれど、この頃はPS4モンスターハンターをほとんどやり尽くして暇になっていた。やり尽くしたというよりはある種の限界点に達していたのが本当のところだけど、要するにモンハンをプレイすることで得られる効用が逓減してきたから、僕には新しいゲームが必要だった。「どうぶつの森」や「ポケモン」みたいなゲームが。しかし一方で、授業が始まると結局忙しくなってゲーム機を起動しなくなるというのもありそうな結末である。これらを天秤にかけた結果、やはり後者の方が重そうだということでこの案は棄却した。僕が週5コマくらいのスカスカの時間割を組めばゲーム三昧できるんだろうけど、あまり望ましいことではないものな。

 

(案2)中華鍋

 これは全然ふざけているわけではなくて、至ってまともな案である。というのもこの時期の僕は最強のチャーハンを作り上げることに取り憑かれていて(まともではない)、そういう人にとって中華鍋を買おうというのはごく自然な考えである。強い火力と格闘しながら中華鍋を振る男ほど絵になる男はなかなかいないからね、そういう絵になる男を目指そうとする時期は誰にだってある。それが僕の場合、たまたま2020年の9月だったのだ。しかし結局は寮母さんに怒られそうだと思ったのでこの案も諦めた。(現在寮母さんは退職されて、代わりに寮父さんがいる。)

 

(案3)漫画『かぐや様は告らせたい』全巻

 AmazonPrimeでアニメ版を視聴して僕は『かぐや様』を気に入った。続きが気になって漫画を調べると、全19冊で合計11,286円とそれほど高くもない(20巻が発売されたのは11月)。ほかに欲しいものも思いつかなかったし、漫画を全巻買うということになんだかわくわくしたから、今回はこの案を採用した。とはいえ、部屋のどこに置くのかはよく考えないといけない。

 

 ということで、夏の終わりに僕は『かぐや様』を全巻買うことにした。

 

 別に通販で買っても問題はないのだけれど、僕は本屋というものが好きだし、配達を待つのも面倒だったから、吉祥寺のジュンク堂で買うことにした。ジュンク堂吉祥寺店はコピス吉祥寺というショッピングセンターの6階と7階に入っていて、漫画コーナーはエスカレーターで6階に上がって左奥に進んだところにある。フロアマップを確認すればよくわかるのだが、漫画は長崎の出島のような隔離された区画に押し込まれていて、やや不憫であるといつも思う。

 

 目的の品は、ヤングジャンプの棚の1番目立つところにある。しかしいざ現物を見て思い至ったのだが、『かぐや様』をレジに持っていくというのはわりに恥ずかしい行為である。もちろんそれは、『かぐや様』を買うのが電車内で通話するみたいに反社会的行為だと言いたいわけではなくて(『かぐや様』を買うことが周りの人たちの不快を大きく増幅させるとは考えがたい)、あくまで個人的文脈においての話である。いったいどういう事情で恥ずかしいのか、あまり意味もないけど述べようと思う。

 

恥ずかしい理由(1):表紙がかわいい

 僕が普段買う本と言えばたいていは小説か、新書か、あるいは参考書の類で、そういった本はシックで落ち着いた、安心感のあるたたずまいをしている。私を読め、君はまた賢くなる、そういうある種の説得力が漂っているのだ。こういう本は安心して堂々と買うことが出来る。

 

 漫画に限った話をすれば、僕が昔買っていたのは『こち亀』や『遊戯王R』(付録のカード「冥府の使者ゴーズ」は強力で、これが欲しかった)などで、表紙を飾るのは基本的に「野郎」であった。いかにも男臭い表紙である。そこには「説得力」の欠片も無い。しかしこういう本は保守的な男子にも優しいデザインだと言える。

 

 対して『かぐや様』の表紙を見ると、そこにいるのはキュート・ガールなのである。見慣れた毛むくじゃらの中年でもなければ、やたらトゲトゲしい髪形をした決闘者(デュエリスト)でもない。高校の制服を着て、高校生らしからぬ髪色をした、キュートなガールがそこにいるのだ。そういうキュートなものを買うのは、保守的な男性にとっては後ろめたいものであったりする。

 

 近年は、旧来的ジェンダー規範に対する懐疑が広まり、伝統的な男性像・女性像が相対化されつつあるが、僕もそういった流れについては原則的に賛同する。僕は決して他人の趣味や考え方について、男なら、女なら、とあれこれ文句を言う人間ではないし、言いたいことがあるわけでもない。しかし自分のことに限っては、男ならこうあるべきだ、と思っている。要するに、パンケーキよりもステーキを愛し、チャラチャラすることを嫌い、涙は見せず、かわいいものに執着しない(猫はいい)、そういう男であるべきだと思っている(たいして珍しい考え方でもないな)。もちろんこれは一つの指針であって、ここから外れることがあるのは当然で、たまにはパンケーキも食べるし、まれに涙も見せる。しかし基本的に、僕はそういう男である。

 

 これまで僕はかわいいもの、特に2次元的にかわいいものとは意識的に一定の距離を保って生きてきた。女の子のイラストと僕というのは基本的に親和性の低い組み合わせで(いでと言えば二次元美少女!なんて思われていたらけっこうショックだ)、例えるならそれは日本のお葬式とダブル・チーズ・バーガーくらいのミスマッチなのである。

 

 そういうわけで、キュート・ガールが表紙をかざる本というのは買いづらい。

 

恥ずかしい理由(2):「知的さ」が足りない

 僕は変にプライドの高い人間で、知的であること、知的な自分を演じること、そうでなければ時々はただならぬ天才感を放つこと、これを大切にしている。僕なりの「知的」というのは、大人っぽくて思考的で、かつクールであること、大体そんな感じである(大人っぽいとはなんなのか? 思考的とはなんなのか? クールとはなんなのか? なんだっていいじゃないか)。こういう基準のもとに、僕は(人前では)できるだけ知的なものを摂取し、知的でないものを摂取しないようにして生きているのだ(ただしこれは都合よく解釈されることもある)。

 

 それでですねー、あまりこういうことは言わない方がいいと思うんですが、暴力的で偏見的な言い方をすれば、ラブコメ漫画が知的な本だとは思えないんですよ。いえもちろん、ラブコメ漫画に知的さがないと言っているわけではなくて。たくさんあるのかもしれないし、ちょっとあるのかもしれないし、ないのかもしれない。作品によって様々だろうし、それは小説だろうが科学雑誌だろうが同じことである。

 

 しかしラブコメ漫画というジャンルへの第一印象として、それは知的な本だとは思えないのである。ラブコメ漫画の性質を考えるとき、そこにあえて「知的」というラベルを大きく貼るようなことはあまりしないんじゃないだろうか。丹念に読み解いていけばラブコメ漫画が信じられないほど知的な本であるとしても、「笑いつつキュンキュンする本」という一般的認識は大きく変わらないはずである。世間一般の評価が「ラブコメ漫画?ああ、あれめっちゃ知的だよね。あれ読んでる人は絶対知的」となることはおそらくあり得ない。例えば豚肉がどれだけ良質なビタミンを含んでいても、とんかつが健康食品だとは思われないように。僕が言う「ラブコメ漫画が知的な本だとは思えない」とはそういうことである。

 

 それで、これは本当にただの個人的悪口なんだけど、ラブコメ漫画は知的でない(ゼロ)というより、(僕にとって)若干マイナス寄りだと思ってしまうのである。別にラブもコメディーも漫画も「知的さ」を損なう要素ではないのだけど、ラブとコメディーと漫画が合わさると、急激に軽薄さを感じてしまう。これはもう、どうしようもなくそう感じてしまう。実際にどの作品を読むとか読まないとかではなくて、総体としてのラブコメ漫画から薄っぺらい印象をぬぐい切れない。僕が『かぐや様』を好きとか、実は『五等分の花嫁』も観たとか、そういう話ではありません。ごめんさない。ラブコメ漫画を読んでいる人がどうとかいうことでもありません。ただ、同じ愛の物語でもスタンダールの『赤と黒』ではなくラブコメ漫画を読む自分というのがどこか許せない。そういう自意識過剰的な心配が恥ずかしさの正体その2である。

 

恥ずかしい理由(3):オタクっぽさ

 オタクは2種類存在する。オープンオタクと隠れオタクである。つまりオタクであることを公言する者と、密かにオタク趣味を追求するものである。別に僕はこれと言ったオタク趣味を持っていないのだけれど、気持ちとしては常に隠れオタクの味方である。漫画やアニメ、ラノベを嗜好することは、誰かに咎められることはなくとも謎の後ろめたさが付きまとう。だからこそ僕はそれらとの距離感に対して敏感に生きてきた。近づきすぎると脳から「おい、それ以上漫画に触れると危ないぜ!」という電気信号が発せられ、僕は有能な武将が敵の深追いを自重するがごとく漫画から離れるわけだ。とりわけキュート・ガールから。

 

 故に『かぐや』様を全巻購入するというのは、僕にとってかなり挑戦的な行為であると言っていい。僕は周りの客からとんでもないオタクだと思われるのではないか。レジの店員だってもしかしたらオタク趣味に否定的な人間で、「あんたみたいなパッとしない男子大学生が女の子の絵を見てニヤニヤしてるのって、正直ねえ?」なんて思うのかもしれない。ラブコメ漫画を19冊抱えて立っている男子大学生がオタクでないと認識される可能性は、基本的にかなり低い。

 

 僕はオタク趣味的に『かぐや様』を買うわけじゃなくて、あくまで漫画を読む平均的若者として買うだけなのだけど(もしかしてオタク趣味を否定するほど逆説的にオタク感が増すのではないか)、外から見ればそんなことをいちいち区別は出来ない。あるいはこれまで無数の客を見てきた熟練の店員なら直感的にわかるのだろうか。こいつはオタクじゃない、と。しかしあまり期待しない方がいいだろう。そんな店員はいない。

 

 まあとにかく、この拭いきれないオタク感が恥ずかしい理由その3である。

 

恥ずかしい理由4:九州男児
 これが最後にして最大の懸念材料なのだが、僕は九州男児という逃れようのない業を背負って生きている。逃れようのないと言うからには、それは逃れようのないもので、九州に育った男は皆、己の意思に関わらず九州男児として生きていかなければならない。そして九州男児には実は明確なルールが存在していて、広辞苑第9版にはそれが明確に記されている。

九州男児

九州地方に生まれ育った男子の称。荒々しいところがあるが、生一本で情熱的な人が多いとされる。ラブコメ漫画を読んではならない。

そう、九州男児はラブコメ漫画を読んではならないのだ。九州男児は皆、10歳の誕生日を迎えた日に両親からこの掟を知らされる。強く生きろ、誰かを守れる男になれ、ラブコメ漫画は読むな。九州男児は常に硬派であること求められるのだ。つまり僕が『かぐや様』を買うというのは、九州男児としての倫理に反する恥ずべき行為なのである。

 

 しかしこれは、もちろん嘘です。広辞苑第9版はまだ発売されていません。(恥ずかしい理由おわり)

 

 

 さて、かなりの時間を無駄にして『かぐや様』を買うのが恥ずかしい理由を書いたが、ジュンク堂吉祥寺店の漫画コーナー、ヤングジャンプの棚の前にいる僕にとっては刹那の思考である。いくら恥ずかしいと言ったって赤面するほどのことじゃないから、僕はこのまま買うつもりでいる。

 

 しかしながらまったくの無防備で行くのはいやだから、僕は一度コミックコーナーを離れ、新書コーナーで1冊、文芸コーナーでまた1冊を手に取る。『日本近代小説史』と『新潮日本古典集成 竹取物語』という、知的な2冊である。いくぶん焼け石に水的補強ではあるが、あると少しだけ心強い。若いチームには経験豊富なベテランが必要だ。

 

 ところで皆さんは、書店で21冊の本を一度に抱えたことがあるだろうか。これはなかなかスリリングな行為である。かごに入れてレジへもっていく前にどうしてもやってみたくなったから、僕は21冊の本を縦に積み重ねてみた。周りに人のいないところで。

 

日本近代小説史

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい

かぐや様は告らせたい10

かぐや様は告らせたい11

かぐや様は告らせたい12

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かぐや様は告らせたい16

かぐや様は告らせたい17

かぐや様は告らせたい18

かぐや様は告らせたい19

新潮日本古典集成 竹取物語

 

 どうだろうか、この圧倒的な厚みは。日本の学生支援もこれくらい分厚かったらいいのに、と思わず口に出してしまいそうな厚さである。

 

 積み重ねた順番にも少しだけ気を配っている。いわゆるサンドイッチである。サンドイッチとは、何となく恥ずかしいもの・後ろめたいものを購入する際、その商品を別の商品で上下に挟み込むことで、レジの人にその商品から注意を逸らすという手法のことである。要するに元気なおじさんがアダルトビデオを借りるときに、それを「ショーシャンクの空に」と「タイタニック」の間に挟むという、あれです。本当にやってるおじさんがいるのか知りませんが、こういうのは逆効果でしょうね。最近はセルフレジが増えているようで、そういう心配もないのかもしれませんが。まあ僕もせっかく本を重ねるならということで、今回はこの作法に則ってみたわけである。風流のために。

 

 倒れないよう注意しながらそっと持ち上げてみると、思いのほか安定していて、このままレジに持って行くこともできそうな感じである。高さは僕の腰から胸くらいまであって、ずっしりとした重みがある。これはなんだか、新生児を抱いているみたいな気分だ。というわけで、今日の教訓はこれ。21冊の本を積み重ねてもつと、新生児を抱くような気分になれる。

 

 さて、本はかごにいれて、素直にレジに行こう。そういうわけで、僕は『かぐや様』全巻とその他2冊を購入した。

 

《参考》

・『かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦 11』より第110話「石上優は語りたい」

・『こちら葛飾区亀有公園前派出所 184』より第1話「両津さんにおすすめします」